
事務所でAI活用を進めようとするとき、たいてい最初に考えるのは「誰に覚えてもらうか」だと思います。
研修を受けさせる、詳しい職員に社内で教えてもらう、といった方向です。
ただ、活用が定着している事務所を見ていると、力を入れている場所が少し違います。
覚えてもらう人ではなく、覚えなくても使える環境のほうです。
会計業界では、AIが「個人の道具」から「事務所の設備」に変わってきた
株式会社エフアンドエムが、2026年9月3日に会計事務所向け生成AIプラットフォームの大規模アップデートを公表しました。
名称変更とシステム基盤の刷新自体は、2026年8月17日に行われています。
同社の公表値では、2025年11月のリリースから約9か月で550事務所、3,203アカウントが導入されています。
同社が運営する会計事務所向けのAIコミュニティにも、2026年6月末時点で1,027事務所が参加しているとのことです。
アップデートの中身は、Word・Excel・PowerPoint・PDFへの出力対応、複数モデルの追加、UIの刷新と応答速度の改善などです。
ただ、ここで気になるのは機能の中身よりも、契約の単位です。
職員が個人で契約するのではなく、事務所がまとめて契約する。
この形が、数百事務所という規模まで広がってきました。
会計業界では、生成AIはもう「興味のある人が試すもの」ではなく、「事務所が用意しておくもの」に近づいています。
相続の現場は、まだ個人任せのところが多い
一方、相続に特化した事務所では、こんな話をよく伺います。
- ある職員が、自分でAIサービスを契約して使っている
- 若手が案内文の作成にAIを使っているらしい
- 所長だけが、提案書のたたき台をAIでつくっている
誰かが先に試してくれているのは、悪いことではありません。
むしろ、その職員が積み上げた工夫は、事務所にとって貴重なものです。
ただ、その工夫が本人の中にとどまっている限り、速くなるのはその人の仕事だけです。
事務所全体の処理量も、成果物の品質も、そこでは変わりません。
個人任せのAI利用には、3つの弱点がある
1. 出来上がりが、指示を出す人によって変わる
同じ「初回面談の要約」でも、指示を出す人が違えば結果も違ってきます。
どこまで細かく書くか、どの論点を拾うか、文章の硬さはどうか。
そのばらつきは、最後に所長や管理者が直す時間として返ってきます。
2. 何がどこまで入力されているか分からない
誰が、どのサービスに、どこまで顧客情報を入れているのか。
事務所として把握できていない例は少なくありません。
相続業務で扱うのは、戸籍や財産、家族関係といった情報です。
使ってよいサービスと入力してよい情報の線引きがないと、その判断は職員一人ひとりに委ねられたままになります。
3. うまくいった方法が、その人と一緒に消える
試行錯誤の末にたどり着いた指示文は、たいてい本人のチャット履歴の中にしか残っていません。
その職員が異動したり退職したりすれば、そこで途切れます。
この3つは、職員のAIリテラシーの問題ではありません。
使い方を個人に任せたままにしている、事務所側の設計の話です。
効くのは「上手い数人」より「使える人数」
職員10名の相続特化事務所で考えてみます。
以下は構造を分かりやすくするための仮定で、特定の事務所の実績ではありません。
いま、生成AIを日常的に使っているのは3名。
面談記録や案内文の作成で、1人あたり月10時間ほど短くできているとします。
事務所全体では月30時間です。
この3名がさらに使い方を磨いて、1人あたり月15時間まで伸ばしたとすると、全体では月45時間になります。
一方、いまと同じ使い方のまま、10名全員ができるようになったらどうなるか。
全体では月100時間です。

上手い人をさらに上手くするより、使える人を増やすほうが、事務所への効き方は大きくなります。
もちろん、上位層のスキルを高めることにも意味はあります。
ただ、先に手をつけるべき順番としては、後者だと思います。
そして「使える人を増やす」ために必要なのは、研修を1回開くことではありません。
誰が使っても迷わない環境と手順を、事務所として用意することです。
組織として使うために、決めておきたい5つのこと
高度なシステムを入れる話ではありません。
決めていないことを決める、という作業です。

1. 使ってよい業務を決める
「AIを使ってよい業務」を先に挙げます。
要約、下書き、資料の整理など、判断の前段にある作業から始めるのが現実的です。
あわせて、使わない業務と、必ず有資格者が確認する業務も決めておきます。
禁止事項から入ると、職員は迷って結局使わなくなります。
許可することから書き出したほうが動きやすくなります。
2. 顧客情報の扱い方を決める
氏名や住所、財産額をそのまま入れてよいのか。
匿名化してから入れるのか。
どのサービスなら業務で使ってよいのか。
これを文書にしていない事務所は、実質的に判断を職員に任せていることになります。
3. 標準の指示文を用意する
「面談要約用」「必要資料の案内用」「説明資料のたたき台用」といった単位で、事務所共通の指示文をつくります。
毎回ゼロから考えなくてよくなるだけで、出来上がりはかなり揃います。
4. 誰が確認するかを決める
AIの出力は、人が確認してから使う。
これを前提にしたうえで、確認者を業務ごとに決めておきます。
作成者本人の確認で足りる業務と、有資格者の確認が要る業務を分けておくと、運用が安定します。
5. 良い使い方を共有する経路をつくる
うまくいった指示文が見つかったとき、それをどこに置いて、誰が確認して標準に加えるのか。
月に一度、朝礼で1件共有する程度で構いません。
個人が見つけたものが事務所に残る道筋があるかどうかが、分かれ目になります。
相続業務なら、判断の手前から共通化する
相続業務には、複数の職員が同じように繰り返す作業がたくさんあります。
共通化しやすいのは、たとえばこのあたりです。
- 初回相談の内容整理と、論点の洗い出し
- 面談記録の要約
- お客様への必要資料の案内文
- 顧客説明用資料のたたき台
- 案件種別ごとのチェックリスト
- 二次相続など、追加提案候補の抽出
- メールやLINEの文案
どれから手をつけるかは、「頻度が高い」「型が決まっている」「間違えてもすぐには大事にならない」の3つで選ぶと決めやすくなります。
AIに任せるのは、専門的な判断そのものではなく、判断するための材料を揃えるところまでです。
税額の判断、遺産分割方針の提示、法的な可否の結論。
このあたりは、AIの出力をそのままお客様に示す対象にはなりません。
有資格者が判断するための下準備を、速く、揃った形で用意する。
その位置づけで使うのが現実的だと考えています。
標準環境を整えることは、教育と品質管理を整えること
「この業務は、この手順でAIを使い、この人が確認する」
ここまで書き出せた事務所は、AI活用以外のところでも効果が出ます。
業務手順が言葉になっているので、新人にそのまま渡せます。
確認の基準が揃っているので、成果物の品質も見やすくなります。
個人任せのAI利用は、新しい属人化を生みます。
組織として設計したAI運用は、逆に業務を言語化して、属人化をほどく方向に働きます。
同じツールを入れても、設計次第で行き先が変わるということです。
会計業界で事務所単位のAI環境が広がっている動きは、相続を扱う事務所にとっても他人事ではないと思います。
このまま個人任せを続けると、職員1人あたりの処理件数や、教育にかかる時間、採用のときの訴求力といったところに、少しずつ差が出てくると考えられます。
まずは、いまの使われ方を確認するところから
最初の一歩は、新しいツールを契約することではありません。
誰が、どの業務で、どのAIサービスを使っているのか。
まずはそこを確認します。
そのうえで、共通化しやすい業務を1つだけ選んで、標準の指示文と、入力してよい情報、確認者を決めてみる。
それだけでも、個人任せの状態からは一歩進みます。
弊社では、「相続事務所で生成AIをどこから使えばよいか」を整理するための生成AI活用レポートをご用意しています。
自事務所の現在地を確かめる材料として、お使いいただければと思います。
AI運用の設計や標準手順の整備でお悩みのことがあれば、ご相談いただけましたら幸いです。
